とても永く 生きているような気がするけれど.
子供の頃のことも ついこの間のことのように感じる .
ずっと何も喋らないでいたら . 詩人の澤村浩行さんに.
” 自分を表現するんだ. 自分の経験を文章にして発表するんだ! “
と 熱く勧められ. つれづれなるままに書いてみました
父方は サムライ 母方は 奄美大島
小さな貿易港の街の 小高い山の麓の高台にある . 家の近所の病院で産まれた.
マリア様の見守る 白い病院 .
いまではマンションの建ち並ぶこの辺りも .
当時は絵本にでてくるような洋館がポツポツと点在する 長閑な山の中 .
海が見渡せて 教会の鐘が鳴り響き 木の香りが立ちこめていた .
よく父が
“ ここからここまで自分の土地 って囲わなくても
ここにある自然全部が おまえの庭なんだよ “
と言っていたので .
家は小さかったけど 私は豊かだった . すべてわたしのお庭だと想っていた.
子供の頃の 記憶のはじめは .
どこからともなく音楽が聴こえてきて . 妖精たちが私の部屋の中でダンスしていたこと.
(その中に ミッキーマウスもいた:)
夜眠る時はいつも . 自分がドンドン膨らんでいって 部屋より大きくなり. そうかと想うと
ドンドン小さくなって 点 より小さくなるのを 繰り返して 眠りについていた.
皆そうなんだと想っていた . 皆それぞれ違うんだ と知ったのは もっと大人になってから.
2歳からクラシックバレエを習い始める .(1番下の兄と一緒に)
初舞台は天使の役 . だから ずっと天使気分だった
ヴァイオリンはすぐに挫折した..
父の仕事が クラシック音楽はじめ 良質の音楽を皆に触れさせる仕事だったので.
いつも音楽会に行っていた .
私の父は ” 07現在91歳(私は4人兄弟の末っ子)
まだ日本人が 簡単に海外に行けない時代に 政府招待でヨーロッパを周り .
向こうのオーケストラや 民族音楽 、 バレエ団に交渉して 日本に呼んだりしていた.
戦後まだ 神戸にクラシックが聴けるホールがなかった時代 .
新しくできた国際会館を 皆で立ち上げ.
労働者に安い価格で 質の良い音楽を提供していた.
コンサートの後 その雰囲気のまま 家に帰ってもらいたいと..
ホールから駅までの道を綺麗に整え .
阪急電車に交渉して 臨時列車を走らせたりもしていたらしい.
このことは 地震の後 神戸新聞の記事を読んで 知ったこと.
カーテンコールの時に 指揮者やバレリーナーに花束を渡すのが 当時の私の役.
舞台裏や映写室で いつも遊んでいた. カラクリ屋敷のような 不思議な世界だった.
幼稚園のとき . 高い窓と 大きな木の机と 博士みたいな人のいる研究所につれて行かれ.
知能指数を測定した . 結果は IQ150 兄が180だったので ガッカリしてた気がする.
小学校は 今では ” お受験 ”の対象となる 国立の小学校に通う.
家の隣の山の麓の高台にある 木造校舎の のんびりした学校 .
(塾、参考書 禁止で 課外授業、遠足、旅行 が多くて 通知簿がない!)
とても良い学校だったと思う .
私は健康優良児だったが 3年生のある日 突然 原因不明の高熱で倒れた.
“ 脳波が人と違う ” という理由で 3ヶ月の入院.
薬は甘酸っぱいビタミン C だけで.
毎日のように 頭にコードを付けられ 電気眼鏡を掛けて ピコピコと脳波治療を受けていた .
サイケデリックな日々
入院中も 私は元気で走り回っていたが . 病棟は重病の子供たちの病棟だった.
はじめに行った 子供病院では “ うちでは難しくて扱えない “ と 断られた.
仲良くなった友達のベッドが さよならも言わずに空になっていく .
半分わかりながら まわりの大人達がかくすのに合わせて .
“元気になって家に帰ったんだ “ と想って過ごしていた.
脳波調整は 中学の2、3年生までつづく.
治療は気持ち良くて好きだったけど .
今から思えば 当時は脳波について まだいろいろ解明されていなかったはず .
そんなに簡単に調整してもいいのかしら? と ふと想ってしまう。。。 ゜
この入院前と入院後で 私の性格は大きく変わった .
入院前は とにかく気が強かった.
幼稚園の頃から 無遅刻 無欠席 熱が40°あって止められても出席していた.
勉強も大好きだった 100点じゃないとイヤだった .
仲の良い女のコがいじめられていたら いじめっこをやっつけていた .
グループは(たまたま家が近いということもあって)エリートツンツン組だった .
“ 近寄りがたかった ” と 後で仲良くなったコに言われた そんなタイプだった.
1年生のとき “ あなた賢いんですの? “ と聞かれ.
“ ええ もちろんですわ “ と答えたらしい 。 ゜ 。
退院後は 遅刻三羽ガラスと言われ 遅刻欠席あたりまえ .
勉強もやる気がなくなり 成績は低空飛行 .
泣き虫になるし いじめっこにいじめられるし .
グループは美術部のロマンチック組と仲良くなる .
親は ただ入院で勉強が後れたから くらいに想っていたみたいだけど .
あきらかに人格が変わっていた .
この治療のことは ずっと忘れていて. 大人になったある日 友達と話していて 憶い出した.
私の人生の 最初の転機かな .
でも絵を描くことは 入院前も退院後も変わらず好きだった .
暇さえあれば お絵描きしていた.
そのなかで 私の人生を決定づける 母のひと言があった .
私の両親は 私が何を作っても いつも褒めてくれていた .
ある日(幼稚園の頃かな) 何かの真似をして絵を描いて .
私はいつもより上手にできたので 得意げに母に見せにいった .
すると母は .
“ ミーちゃんの中から出てきたものなら どんなものでも大切だけど.
何かの真似なら 上手く出来ても嬉しくない “
と言って 喜ばなかった .
その時から私は “ 絶対に人の真似はしない “ ということが無意識下のポリシーになった.
そのために 誰かが自分と同じことをしていたら やりにくくなったり.
進歩が後れたりする という問題も発生したけれど.
とにかくそれが 強いポリシーとなり いままで生きてきたみたい.
もちろん 自分の意識しないところで いろんな影響をうけたり 学んだり
いろいろなものに縁して いまの私があるのだけれど.
あ でも ウッドストックの時代に せつないくらい憧れて.
ファッションとかいっぱい真似していたっけ 。 。 *
anyway それが功を成したのか.
小学校5年生のとき 美術の先生の推薦で NHK に出演して 漫画家の先生と対談したことがある.
もう一人推薦されて一緒に出演したのは 天才的に絵の上手い 仲良しの女のコ.
その頃 私は長編漫画をかいていて. オリジナリティがあるといって 褒められたような気がする.
ストーリーは もう一つの世界と この世界を行ったり来たりする女のコの話.
そんなお話ばかり描いていた .
最初に一コマ描いて 勝手に話が展開していく感じが面白くて . そんな描き方ばかりしていたな.
けっして上手くはなかったけれど
中学生になるまでは 机に向かえば 絵ばかり描いていたような気がする.
私はとにかく 小学校が大好きだった . 友達も先生も 小学生である という自分も.
中学生になりたくなかった . 中学生には “ 分別 “ という 大人の匂いがした.
いつまでも このままでいたかった .
だから仲良しの友達と4人で時間を止めた . それが11歳のとき
つづく
© 2007 GODSGARDEN